定期的に話題になる地名の「ん」のローマ字表記には “n” と “m” がある問題。記事になったこともあり(2011年11月18日:日経電子版)、時々話題になるトピックです。
“n” と “m”の問題とはどういう問題なのでしょうか。
例えば、ヘボン式で地名を表記する時、“b”、“m”、“p”の前に“n”がある場合はどう表記するかを考えます。実例として、「日本橋」は以下2つの表記方法があります。
・“Nihonbashi”と“n”のままにするのか(修正ヘボン式)
・“Nihombashi”と“n”を“m”に変えて表記するのか(旧ヘボン式)
この使い分けは現在においても各省庁間ですら統一されておらず、街中には2つの表記が混在しているのです。
また、群馬県では「群馬(ぐんま)のローマ字表記について」という通達を出しています(リンク)。“Gunma”と“Gumma”の表記が混在することで、留学先などでの海外の諸機関において混乱を招いている現状があるのです。
そこで気になったことがあります。
・なぜ統一しないのだろう?
・各自治体はどちらを採用しているのだろう?
調べていったところ、国内外情勢に基づく政府の方向転換の歴史、そして自治体の「観光」に対する意識の違いが見えてきました。ということで、地名の “n” と “m”が混在した理由と現状を、政府と地方自治体に注目して考えていきます。
政府の見解
まずは、日本国政府の考え方についてまとめます。すると、省庁により“n” と “m”のどちらを採用するのか、見解の方向転換や省庁間の違いが見えてきました。
文化庁・内閣府
まずは「文化庁」と「内閣府」です。
文化庁のホームページには「ローマ字のつづり方」というページがあり、これによると、1954(昭和29)年12月9日、時の吉田茂内閣は「内閣訓令第1号」を告示し、これが2023年現在でも有効です。そして、訓令の中にある「そえがき」には以下の定めがあります。
ローマ字のつづり方 そえがき
前表に定めたもののほか、おおむね次の各項による。
文化庁HP(https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/roma/soegaki.html)
1. はねる音「ン」はすべてnと書く。
(以下略)
つまり、各省庁を統べる内閣、そして文字を規定する文化庁は“n”にて表記するという見解であることが分かります。
観光庁
次に「観光庁」です。
2020年東京オリンピックの誘致、また観光立国を目指し国が動く中、安倍晋三元首相が主宰する「観光立国推進閣僚会議」は2013(平成25)年6月11日、「観光立国実現に向けたアクション・プログラム」が取りまとめました。このプログラムの中で、外国人旅行者の受入の改善の一項目として「多言語対応の改善・強化」が掲げられました。そして、問題の一例として「英語表記の統一や表示の連続性確保等の課題」が挙げられています。
ここで掲げられた問題点を検討するため、2013(平成25)年、観光庁では「観光立国実現に向けた多言語対応の改善・強化のための検討会」が設立され、観光地での英語表記の在り方が検討されました。そして複数回の検討の結果、2014(平成26)年3月5日、観光庁は「観光立国実現に向けた多言語対応の改善・強化のためのガイドライン」を取りまとめました。この中では以下の表記があります。
備考
観光立国実現に向けた多言語対応の改善・強化のためのガイドライン
1.はねる音「ン」はnで表すが、m、b、pの前ではmを用いることができる。
第1編:多言語対応の方向性
2.多言語での表記方法
16ページ
観光庁HP(https://www.mlit.go.jp/kankocho/page08_000074.html)
ここから、内閣訓令第1号に基づき“n”の表記が原則だが、訪日客の分かりやすさのために、実際の発音に近い表記となる“m”にしても良いという形で、定めが曖昧になりました。
国土地理院
続いて地図を作る「国土地理院」です。
国土地理院では、観光庁に一歩遅れ、「外国人にわかりやすい地図表現検討会」が設立され、地図における英語表記の在り方が検討されました。この結果、2016(平成28)年3月29日、「地名等の英語表記規程」として取りまとめられました。この中では以下の定めがあります。
(注-2)
地名等の英語表記規程(国地達第10号)
上記表のほかは、おおむね次の各項による。(一部内閣告示と異なる)
(1)はねる音「ん」は、全て n と書く。
別紙1(第2条関係)
表音のローマ字による表記方法
国土地理院HP(https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/kihonjohochousa40072.html)
つまり、国土地理院は内閣訓令第1号を踏襲し“n”にて表記するという見解であることが分かります。
外務省
最後に「外務省」です。
1951(昭和26)年に施行された旅券法施行規則第5条には以下の定めがあります。
(旅券の記載事項)
旅券法施行規則(平成元年外務省令第十一号)
第五条 法第五条第四項の外務省令で定める事項は、本籍の都道府県名、生年月日、性別及び第三項の規定による呼称とする。
(この間省略)
4 第二項の氏名及び前項の規定による呼称はヘボン式ローマ字によって旅券面に表記する。(以下省略)
e-GOV法令検索HP(https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=401M50000020011_20230327_504M60000020010)
ここで言う「ヘボン式」は旧ヘボン式であり、外務省HPにも以下の表記があります。
【ヘボン式ローマ字表記へ変換する際の注意事項】
ヘボン式ローマ字綴方表
1. 撥音:B、M、Pの前の「ん」は、NではなくMで表記します。
例:難波(ナンバ)NAMBA、本間(ホンマ)HOMMA、三瓶(サンペイ)SAMPEI
外務省HP(https://www.ezairyu.mofa.go.jp/passport/hebon.html)
つまり、パスポートの作成にあたっては“n”を“m”に変えて表記することとなります。
そもそも、パスポートの規格はICAO(国際民間航空機関)によって定められています。ICAOの規程「ICAO Doc 9303」では以下の定めがあります。
3.4 Convention for Writing the Name of the Holder
(この間省略)
If the national characters are not Latin-based, a transcription or transliteration into Latin characters shall be provided.(日本語訳)
ICAO Doc 9303: Machine Readable Travel Documents
国語の文字がラテン語でない場合、ラテン語文字との対照表が(ICAOへ)提供されるものとします。
Part 3: Specifications Common to all MRTDs
3. VISUAL INSPECTION ZONE (VIZ)
3.4 Convention for Writing the Name of the Holder
ICAO HP(https://www.ezairyu.mofa.go.jp/passport/hebon.html)
つまり、外務省は少なくとも1951(昭和26)年までに、旧ヘボン式の“n”を“m”に変える旧ヘボン式の文字対照表をICAOへ届け出ているということ、そして今に至るまで使用し続けているということになります。
「時代」の変化で見解も変化
なぜ、外務省だけが旧ヘボン式を用いているのでしょうか。それは時代に関連すると考えられます。
実は修正ヘボン式、そしてはねる音「ん」を全て“n”として定められたのは、1954(昭和29)年、研究社発行の『新和英大辞典』第三版が最初なのです。1954(昭和29)年より前に定められた旅券法施行規則では、修正ヘボン式は採用しようにも出来なかったことになります。
また内閣訓令第1号に合わせ、パスポートの表記を“n”表記へ変更するには、ICAOを巻き込んだ調整が必要であり、そうそう簡単には出来ることではないことは易々と想像できます。
その後、パスポートの表記以外は”n”表記に統一されました。しかし、日本が観光立国
政府の見解まとめ
以上から見えてくるように、政府の見解は概ね定まっているようにみられます。
・原則は“n”
・(観光地など)訪日客の分かりやすさを重視すべき場合は“m”にしても良い
・パスポートは仕方なしに”m”
ということになります。
地方自治体での表記は?
では地方自治体では”n”と”m”のどちらを採用しているのでしょうか。政府における地方自治体の管轄は総務省になります。ここで調べたところ、総務省では特段ローマ字についての定めはないようでした。即ち、内閣府の「内閣訓令第1号」により、はねる音「ん」はm、b、pの前でも“n”とするのが正しいものとなります。
では実際の表記について、地方自治体ホームページより、
・バナーのロゴ
・著作権表示→(例として) Copyright © Tombo City All Rights Reserved.(赤色部分)
・ホームページアドレス(URL)
を調べてまとめました。対象となったのは24自治体です。
※2022年5月31日現在の表記
※英語表記は各地方自治体HPの表記のまま記載
結果、m、b、pの前の“n”を“m”に変えて表記しているのが11自治体、“n”のままが12自治体でした。また、北海道の中頓別町は表記は“n”のままを採用しているようでしたが、ホームページアドレスだけは“m”に変えて表記していました。見事なまでにバラバラです…。
なぜこうもバラバラなのか、真相は定かではありません。ですが表を眺めていると、ある仮定に気付きました。それは、「観光」を重視する自治体か否かということです。
・紋別:流氷観光
・仙北:田沢湖や乳頭温泉
・御殿場:箱根と富士とアウトレット
・丹波:すでに観光や地域ブランドとして全国に浸透
地名の“m”に「海外の方に我が街へ来てほしい」という自治体の思いが現れているのかもしれませんね。
まとめと私見:統一性と観光への融和、どちらを重視するか…
政府としては原則”n”、観光に配慮する場合は”m”もOKという見解であることが分かりました。そしてその見解は地方自治体にも広がりつつあります。つまり、観光立国を目指すようになった時代の変化に合わせ”n”への統一から”m”も許容という形で変化していく過中にあるのです。
英語表記を発音に近い”m”にしていくことは、日本人の得意技である「おもてなし」のひとつとも捉えられます。しかし、この許容によって英語表記の”n”、”m”混在を招き、海外からの観光客には分かりにくくなったと考えることは出来ないでしょうか。本当に“m”にすることは「おもてなし」なのでしょうか。
1954(昭和29)年に定められた修正ヘボン式は、その後イギリスやアメリカでも(一部変更はあるものの)採用され、世界に通用するものとなりました。イギリス政府からも公式通達が出ている(2017年10月:イギリス政府通達)ように、はねる音「ん」はすべて”n”というのは海外でも一般的なことなのです。
それを考えれば、“n”を“m”に変える必要は本当にあるのかと疑問に感じざるを得ません。むしろ、海外の方の理解力を否定しているとも考えられないでしょうか。海外の方の理解力を信頼し、はねる音「ん」の表記は“n”に統一した方が余程分かりやすく「思いやり」のある表現になると筆者は考えます。
既に”m”が広がり続けている状況です。ここから再び”n”に統一していくことは相当に難儀なことだと容易に想像がつきます。ホームページのドメイン変更、膨大なパンフレットや書類等の修正などなど、コストも人員も必要となります。非常に難しいことではありますが、出来るものならばパスポートも含め全て“n”に統一し、分かりやすいローマ字表記が広がった将来が来ることを願うこととします。
お読みいただきありがとうございました。
改訂
2023年5月2日:より読みやすい表現を目指し、文面を全面改訂(趣旨主張は変えず)
コメント